飛鳥〜奈良時代
山岳信仰、修験道の聖者
葛城山に住み、呪術に優れ、鬼神を自由に操ったといわれます。
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姓が役公(えだちのきみ)で、名を小角(おづぬ)といいます。634年(舒明天皇6年)に大和国葛木上郡茅原の里、現在の奈良県御所市茅原(ちはら)にある「吉祥草寺」で生まれました。父は加茂役君(かものえだちのきみ)、母は渡都岐比売と云います。12歳の時に葛城山に登り木の芽をたべ瀧に打たれる修行を始めました。19歳で家を出て本格的な山嶽修行に入り、修行の邪魔をする2匹の鬼、前鬼(雄の儀学)と後鬼(雌の儀賢)を捕らえ(生駒市鬼取町という地名が残っている)弟子にしました。34歳の時に金峯山(吉野)で蔵王権現の示現(じげん)に会い、法力を感得して修験道を確立します。699年(文武天皇3年)5月24日、役行者66歳の時、伊豆の大島へ流されます。ここで空を飛ぶ術を会得し、許されたあと、701年(大宝元年)彼が68歳の時、母親を鉢に乗せて唐の国へ飛んで行ったと云いいます。 江戸時代後期に、「神変大菩薩」の贈名を賜ります。また、出家せずに仏道に励む修行者であったので、役の優婆塞(うばそく)ともいいます。 役行者の修験道は、理源大師聖宝や天台宗寺門派の開祖智証大師円珍に引き継がれ、北の吉野から大峰山に入り金峰山(山上ケ岳)を中心に活動した醍醐寺を中核とする真言系の当山派と、南の熊野から峯入りをする京都の聖護院を中核とする天台宗系の本山派とに別れます。其の外、東北の出羽三山や日光ニ荒山など、全国各地 の霊山とよばれるところで修験道の諸派が生まれました。 明治5年、明治政府の廃仏毀釈(神仏分離令)によって修験道は禁じられて多くの堂舎が破壊され るという蛮行にあい、東北の出羽三山や日光二荒山などは神社として生き残り、本山派は天台宗に、当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなります。戦後は独立して、現在、本山派は聖護院を中心とする本山修験宗、当山派は醍醐寺を中心として真言宗醍醐派になりました。これに天台系の金峯山修験本宗を加えた三派が修験の主流です。 |